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煙を求めて幾千里

蒸気機関車を追いかけることに夢中だった青春時代。 その後の長い長い休眠期間を経て、復活した蒸気機関車を再び追いかけ始めました。自然の中を走りぬけていく姿が好きです。

黄昏の煙 



薄暮の頃にやってきたのは臨時回送列車
日豊本線 昭和48年8月4日撮影

 
車内灯が点灯していないことから、これは回送列車だということがわかります。この三日後にも撮影しており、夏臨が増発されるこの時期、客車やりくりのため毎日のように走っていたのかもしれません。

2019ハチロクの日 



回送客車を従えて架線張られた広い遠賀川駅構内を後にする38634
室木線 昭和48年12月27日撮影 


当時貨物レ1往復、客レ6往復の全列車がハチロク牽引だった室木線。若松機関区8620運用表によると午前と午後二つの仕業で回していたようですが、これは午前の仕業番号21の方。未明の下り貨物とその後の3往復の客レをこなし、これから回824レとして若松に戻るところです。室木線としましたが、正しくは鹿児島本線なのでしょう。

炭鉱閉山 (2) 



動くものはなく構内は静寂の世界
貝島炭鉱 昭和51年7月18日撮影


この背後はこんなでした。閉山後間もない頃の貝島炭鉱六坑の寂れた風景。正面奥、鉄筋コンクリート建造物はベルトコンベヤーが見えることから石炭の積み込み施設だと思われます。もう少し早く来ていればアルコやコッペルの煙を見ることができただろうに。

夏の峠道 (3) 



むっとする草いきれの中をやってきたのはD51
関西本線 昭和48年8月12日撮影 


このところの酷暑に比べれば当時の暑さなど足下にも及ばず、ということになるのかもしれません。でもこんな写真を眺めていると、強い夏の日差しに焼かれた道床バラストのあの独特な匂いが思い出されてくるのです。

汽車と海 



小雨降る日は海も空もどんよりと
山陰本線 昭和49年3月21日撮影

炭鉱の町 (2) 



炭鉱住宅のある鹿の谷を往く石炭列車
夕張線 昭和50年3月27日撮影


手前僅かに見える線路は北炭夕張鉄道線。ここ鹿の谷には北炭夕張鉄道の庫があり国鉄夕張線とも接続していました。ちょうどこの3月に北炭平和炭鉱は閉山、運ぶもののなくなった夕張鉄道線は4月1日に廃止されてしまうのでした。

炭鉱の町 



残されたボタ山はかつてそこが石炭産業で栄えていたことの証
後藤寺線 昭和48年12月23日撮影


この時キューロクが運搬しているのは石炭ではなくて石灰。筑豊地方で多く見られたボタ山は炭鉱閉山とともに消えていったのですが、40年以上経ってこのボタ山はどうなっているのでしょうか。航空写真で確認すると、当然と言えば当然のことかもしれませんが姿形はなく住宅地が広がっていました。

都城の煙 



貨物列車の先頭に立つのはC11
志布志線 昭和49年3月19日撮影


当時の都城駅は日豊本線から吉都線や志布志線が分岐していた鉄道の要衝。無煙化迫るこの頃でも、C55・C57・C58・D51と多くの種類の罐を見ることができました。運用上はC58となっていた志布志線では、時にC11が入線してくることもありました。

忙中閑あり 



何を話すのか、交換待ち中の一服
日豊本線 昭和48年8月4日撮影

C12駆ける 



峠を越えれば足取り軽やか
明知線 昭和48年9月16日撮影


父親が運転する車の車窓から撮影した一枚。機関士と機関助士は並走するこちらを眺めながらほっと一息ついているようにも見えます。短い路線ながら丘陵地を走っているため大小いくつかの峠がある明知線でした。

川面の風情 



水面眩しい加太川に沿って走るのはDD51が先頭の荷物列車
関西本線 昭和48年6月10日撮影


無煙化近づくこの頃の関西本線では、貨物列車の本務機のほとんどがDD51に置き替えられていました。そんなこともあって煙のないこともさることながら、D51が先頭のはずの荷物列車に招かざる客がついておりがっかりした記憶があります。回送だったのでしょうか。

扇形庫 



D51や9600、終焉間近にもかかわらず多くの罐で賑わう
追分機関区 昭和50年4月2日撮影


ちょうどこの一年後、突然の火災により留置中だった罐ともども焼け落ちてしまうなどということ、一体誰が想像できたでしょうか。

白煙を纏って 



加太隧道から飛び出したD51
関西本線 昭和46年11月21日撮影


初めて蒸気機関車の走行写真を撮影したこの日、トンネルから飛び出すD51をファインダー越しに眺めながら夢中でシャッターを切っていたら流し撮りになっていました。よく見ると集煙装置で煙突出口が閉じられたことにより、白煙は真っ直ぐ後方へ流れていることが確認できます。集煙装置の効果がよくわかる写真なのでしょう。

名勝「寝覚めの床」 



木曽川の流れに沿って走るD51はやはり無煙
中央西線 昭和47年3月19日撮影


煙がなくてよくわかりませんが、さてさてD51はどこにいるのでしょう。ここで目が覚めるような煙を見たいのなら、やはり下り列車狙いに限ります。

D51453 



濃い霧に包まれた朝の京町駅を発車、こんな時は青天間違いなし
吉都線 昭和48年8月7日撮影


「朝霧は晴れ」とはよく言われますが、特に盆地ではそれが顕著となります。加久藤盆地に位置しているここ京町、その言葉通り二時間も経てばこんな具合となりました。
D51453についてはマイオさんへのコラボということで。

お別れの日 



豪華な装飾とナンバープレートの青が鮮やかなC11155
樽見線 昭和47年4月16日撮影


当時名古屋鉄道管理局管内の蒸気機関車は、ナンバープレートに彩色が施されていました。理由としては現在行われているような装飾が目的ということではなく、ひとつの線区の中で機関車の所属区が一目でわかるようにという実用面からだったようです。名古屋は赤、稲沢は黒、大垣は青、美濃太田は赤、米原は緑、中津川は青などといった具合です。実際この目で見ることができたのは大垣の青、稲沢の黒、中津川の青だけでしたが。
47年前の今日は、その大垣電車区の青ナンバープレートC11にとって最後の日。美しく仕上げられ飾りつけられたその姿に区職員の方々のこの日に対する思いが感じとれます。

春の夕陽 



D51の下り貨物レ、右手に東海道本線が見えるとほどなくして草津駅へ到着
草津線 昭和47年4月29日撮影


画面左手に見える新しいコンクリート高架橋が気になりました。調べてみると昭和44年11月に完成した京都方面から草津線へ直通運転するための高架橋で、この少し奥で東海道本線をオーバークロスしているようです。気動車・電車化されると線内折り返しが主となってしまった草津線ですが、無煙化前のこの頃はD51に牽かれてきた多くの客車列車や貨物列車がここ草津でEF58にバトンタッチされ京都方面へ向かっていったのでした。

残雪の鉄路 



夕張鉄道との並走区間を往くD51貨レ
夕張線 昭和50年3月27日撮影

入替の風景 



雪どけ水でぬかるんだ構内に響き渡るキューロクのドラフト
追分機関区 昭和50年3月24日撮影

南国の春 



菜の花とすっくと伸びたシュロの木一本
日豊本線 昭和49年3月20日撮影

C11165 



青ナンバープレートに小工式除煙板を装備したその優美な姿
志布志機関区 昭和48年8月6日撮影


先般大井川鐵道ナイトトレインに乗車した際、C11190に装備されている小工式除煙板の製造工程が紹介された小冊子を頂きました。それによるとベースとしているのはC11254。お召機ともなったこのC11165の除煙板はC11254と同じK7タイプとなりますが、よく見てみるとボイラーへの取り付けステーの形状は大きく異なっているようです。

凍夜 



次の仕業に備え静かに休むキューロクたち
帯広運転区 昭和50年3月25日撮影

夜行鈍行「からまつ」で道東から道央への移動途中、帯広駅停車中に撮影した一枚だと思われます。長い停車時間があったのでしょう。

日向の里 



飫肥杉の木立が点在する長閑な農村を往く
日豊本線 昭和49年3月17日撮影

道東の煙 



原野に架かる鉄橋をC11が渡ってゆく
標津線 昭和50年3月25日撮影

冬田を往く 



逆キューロクが築堤を力行中
後藤寺線 昭和48年12月23日撮影

水面の風情 



大淀川を挟む宮崎と南宮崎間だけのC57逆機
日豊本線 昭和49年3月18日撮影

常紋への道 



峠まではあと僅か
石北本線 昭和50年3月29日撮影

 



火を落とし休むC5694
木曽福島機関区 昭和47年3月19日撮影


このC5694、調べてみると昭和12年3月12日の日立製。白山区に新製配置され、その後横浜区、飯山区、上諏訪区、長野運転所などを経て、昭和48年11月8日に廃車とあります。長野運転所時代には浜田区や中込区が借入れをしていました。経歴によればこの時点では上諏訪区にいるはずなのですが、何故か配属記録のないここ木曽福島機関区に。上諏訪地区の入れ替え無煙化は昭和47年3月14日、上諏訪区から長野運転所への転属が昭和47年4月1日。この日はちょうどその間となりますので、その辺りに何らかの理由があるのかもしれません。
ところでこのC5694最後の大仕事は、小海線無煙化後の昭和48年7月から9月に亘って11日間復活運行された「高原のポニー号」の牽引。当時はまだまだ多くの蒸気機関車が全国的に活躍していたという状況ではありましたが、そんなことを差し引いたとしてもファンによる国鉄総裁への請願によりSLを走らせてしまったという、まさに驚くべきそして喜ぶべき出来事でした。

33‰の道 



目一杯の煙を吹き上げやってきたC12
明知線 昭和48年7月26日撮影


33‰の急勾配が続く明知線ですが、天をも焦がすほどの煙にはついにお目にかかることはありませんでした。いつも荷が軽かったからなのでしょうか。それとも機関士の腕が良かったのでしょうか。はたまた罐の状態が良かったからなのでしょうか。

大淀川の朝 



C57客レの橋上シルエット
日豊本線 昭和48年12月25日撮影


45年前の今日、クリスマスの朝は宮崎で迎えましたが、ちょうどその頃大雪となっていた七尾線では素晴らしいクリスマスプレゼントがあったようです。その日の朝ここ大淀川では何も起こらず、翌日一日遅れてようやく貰ったプレゼント、突然のサプライズも残念ながら活かすことができませんでした。